〈ジェレミー・ウールズィーのメディア批評 ①〉
「キャスター」はどこへ行ったのか?
本連載について
かつて「メディア批評」(篠田博之による造語)という雑誌のジャンルが盛んだった。ネットが普及する以前の、私が知らない時代、『噂の真相』や、『創』、『本の雑誌』、『広告批評』などの小規模な雑誌は、それぞれに違いがあるものの、総じてこのジャンルの物書きたちに「実践の場」を提供していたようだ。1970年代半ばに系列化し肥大化していったマスコミの仕組みやその影響を正確かつ多面的に捉える(時にはパフォーマンス的に暴露することも含めて)ことは、もちろんメディア批評の目的の一つだったが、同時にここにはメディアが飽和した状況下でどのように生きればいいのか、という哲学的な問いも含まれていたように思われる。つまり、マスコミやメディアを外から捉えるのではなく、それがもたらす情報環境の中を生きているのであれば、そしてそれを目の前にある「現実」よりリアルに感じられるのであれば、その情報環境の中で自由に冒険したり喧嘩を売ったりすることを目指すべきであるという考え方。これこそが「メディア批評」だったのではないだろうか。このスタンスには、ある種の精神的な逞しさを感じざるを得ない。そして言うまでもなく、この逞しさを支えたのはそれなりの経済的余裕だった。それゆえに、80年代の「ポストモダン」の病気——「メディアによって作られるイメージ」を「現実」と取り違える病気——として批判されるのかもしれない。にもかかわらず、本連載では「メディア批評」の精神を受け継ぎながら、アナログとデジタルのメディア文化を行き来しつつ、現代のさまざまなメディア環境の探求を試みるつもりである。
近頃、「キャスター」という言葉をあまり耳にしない。これは私の印象にすぎないかと、本論を書き始めるにあたって、何人かの友達や知り合いに「好きなキャスターはいるか」と聞いて回ってみたけれど、誰もいるとは答えなかった。お世話になっている日本語のY先生(60代男性)が「BSのニュースショーをよく見る(例えばフジテレビの『プライムニュース』やTBSの『報道1930』など)」と答えてくれたが、先生はその番組を仕切るキャスターや司会者の名前はパッと思い浮かばなかった。どうも「キャスター」は死語になりつつあるようである。しかし、1990年代にあれほど一世を風靡した、その時代の寵児でもあったキャスターはなぜ衰退してしまったのだろうか。本論では「キャスター文化」を振り返りながら、その歴史的役割、また終焉について考えてみたい。
「なぜ今、キャスターなのか?」と疑問に思われるかもしれないが、筆者は主に70〜90年代の日本のマスコミ(とマスコミ批判)を、文化史の視点から研究する身であり、やはりこの「キャスター」は避けては通れない存在である。30代の筆者は当時のことを当然直接は知らないが、80年代後半までの日本の新聞やテレビニュースが掲げていた「客観中立」は、多くの読者・視聴者にはあまりにも形式的で予定調和的に見えていたのではないだろうか。客観性(言い換えれば、「立場のない立場」)は擬制だとして、この擬制の意義を問うことを日本のマスコミが先延ばしにし続けたツケとして、自分の意見をはっきり言える、90年代のキャスターたちが求められていたのである。これはもちろん現代のメディア環境の問題にもつながる。いかに「ポストトゥルースの時代」には「理性」や「専門家」が必要だと叫ばれようとも、人が同時に主観性を求めることは必然的であるように思われる。キャスターとは何だったのかを問うことは、「現実」を知るのに新聞やテレビだけではなく、ユーチューブの討論番組やインフルエンサーたちの意見に頼る私たちとは何なのかという問いにつながるはずである。
日本のキャスター文化黎明期
キャスターの歴史を知るには、嶌信彦の『メディア 影の権力者たち』(1995年)が随一と言っていい。もともと毎日新聞の記者で1987年にフリージャーナリスト、テレビコメンテーターに転身した嶌は、リアルタイムに、かつ当事者として「キャスター」の台頭を見た。まずはこの本に沿ってキャスターの成立について見ることにしよう。
嶌によると、日本のキャスターの草分け的存在として田英夫が挙げられる。元共同通信の記者である田は、1962年に放送を開始した日本の最初の本格的ニュース番組、TBSの『JNNニューススコープ』のキャスターの一人に起用された。この番組は明らかにアメリカで発達したニュースショーの文化を日本に導入しようとする試みだったので、ここではその文化に触れなければならない。
アメリカのニュースショーとそれを仕切った司会者、いわゆる「アンカーマン」は、冷戦下のアメリカのリベラルエリートと中流階級の価値観、もしくは彼ら・彼女らの良心を体現するような存在であった。その代表は『CBSイブニングニュース』で60〜70年代にアンカーマンを務めたウォルター・クロンカイトだろう。彼は理性的で安定感に満ちており、他のアンカーマンと共に多くのアメリカ人が共有する「現実」を安定化させていた。現実は事実でできていて、事実はこうだよ、と。いわゆる「ビッグスリー」の放送局(CBS、NBC、ABC)は放送免許を独占してテレビ市場を支配したが、クイズ番組やドラマなどの人気が国民の低俗化をもたらすのではないかという政治家やエリートたちの懸念に対して、ニュース番組とその代表であるアンカーマンを啓蒙的な理想像として掲げた。そして、80年代後半にテレビの免許制度が緩和され、CNNやケーブルニュースが台頭するまで、放送局のアンカーマンがアメリカ人にニュースを伝えていたのである。
田英夫はこうしたアメリカのニュースショーの文化、とくに「客観的」な事実と「主観的」な意見のはっきりした区別(アメリカのニュースショーでは意見を言う役割は「コメンテーター」に回されていた)を日本に定着させたかったようだ。しかし同時に、彼は日本の戦後政治の文脈でいえば「進歩的知識人」(日本がアメリカとソ連の双方に中立であるべきという考え方)の立場に近く、この立場上、ベトナム戦争に反対せざるをえなかった。彼はアメリカによる北ベトナムの空爆を取材した結果、自民党(とその背景にあったアメリカ政府)の反感を買い、TBSを追われた。こうして、60年代にはキャスター文化は日の目を見ることがなかった。
嶌信彦の言葉を借りれば、キャスターニュースを花開かせたのが、磯村尚徳である。それまで堅苦しい原稿を棒読みしていたNHKのアナウンサー文化に一石を投じるべく、元NHK記者の磯村は1974年に始まった『ニュースセンター9時』(NHK)のキャスター役を務めながら、いわゆる「会話調」を開発した。磯村はニュースを、即興性のある、話し言葉的なものにしたのである。また、「ちょっときざですが」という枕詞で自分の意見を加えることも試みた。しかし、田英夫がいわゆる「対抗的な個」(近代的な市民と権力の二項対立)であるとすれば、磯村は「自分らしい個」という違いがあった。つまり、磯村は権力に対抗的であるというより、その二項対立構造自体から脱却しようとして、いわば自分らしい表現を追求した。自分らしさとは言い換えれば、イデオロギーに取り憑かれずに、その場その場の状況に応じる柔らかさ、かつ即興性だろう。本人曰く「私なんかは完全にしゃべり人間だと思ってるんです。しゃべり人間てのは、大体演繹的じゃなくて、しゃべってるうちに私なんかはまとめていくわけです」。とにかく彼がこのスタイルを始めるまでは、全国紙の報道やNHKのイブニングニュースのように、ニュースは基本的に脱人格的で、なるべく中立であらんとする存在だったが、磯村はニュースに「人間の顔」を被せた。しかし、NHK記者でもある磯村は組織という限界にぶつかって、たった3年間で『ニュースセンター9時』を降りた。磯村はニュースにおけるキャスターの存在感を印象づけたが、キャスターの本格的な出番は1980年代に入ってからになる。
テレビの主観性とキャスター文化の開花
1985年に始まった、テレビ朝日の『ニュース・ステーション』は伝説的だと言っていい番組である。嶌信彦が示すように、この番組は「ニュース戦争」(民放ニュース番組による視聴率の競争)を仕掛けただけではなく、テレビ朝日と「オフィス・トゥー・ワン」というタレント会社が番組の制作を共同で行なった点において、ニュース番組制作の外部委託という形を開拓した。その成立の詳細については嶌の本に任せるとして、ここでは久米宏というキャスターの独自性に注目したい。もともと新聞・報道記者の経験のない、ラジオ・テレビのバラエティの司会者だった久米はキャスターになれるはずがなかったにもかかわらず、キャスターになれた。これはアマチュアが求められたその時代の要請と言わざるをえない。
久米は何よりも、ニュースを読んだ後の「当意即妙のリアクション」やいわゆる「捨て台詞」で人気を得た。社会学者の新藤雄介の言葉を借りれば、初めての「『物言う』キャスター」になった。そして政治に無関心だった久米が、80年代の終盤に起こったリクルート事件や消費税導入の問題を取材する中で、政治に、特に自民党の政治について批判的に発言することになったのも当然な流れだったのだろう。本人曰く「当時の政権は自民党だったため、番組のスタンスは結果的にアンチ自民党になった。なぜ反自民かと問われれば、それは政権の座にあるからであり、それ以外に理由はない」。つまり、久米のスタイルに、田英夫の「反権力」的な態度と、磯村尚徳の「自分らしさ」(脱イデオロギー化)の追求が相まって、初めて90年代の日本社会に合うキャスターが生まれたのである。と同時に、放送法の規制が多かったために言論機関にふさわしくないと思われていたテレビは、少しずつ主観性を帯びるようになっていった。
90年代を代表するキャスターといえば、久米宏、筑紫哲也、田原総一朗(田原本人は自分のことをキャスターだと考えていないようだが、一般にそう思われていた節がある)、鳥越俊太郎、田丸美寿々、木村太郎、小宮悦子などが挙げられるだろう。それぞれの番組やスタイルは違うものの、ここでいくつかの共通点を見出したい。まず、彼ら・彼女らは視聴者の政治に対する不満を代弁しながら、五五年体制下のいわゆる「密室政治」に批判的であった。日本の政治を改革しよう、と。次に、ほとんどは社員ではなく、フリーで活動していたにもかかわらず、久米・田原がテレビ朝日の、また筑紫がTBSの「顔」であったように、各テレビ局の看板のような存在になっていた。さらに90年代はまだ全国紙に署名記事が本格的に導入されていない状況であり、キャスターは「ジャーナリスト」としても知名度を高めていった。もう一つの特徴としては、筑紫が言うように、日本のキャスターは「キャスター兼コメンテーター兼レポーター兼エディター」であった。つまりアメリカでは分業化されていたさまざまな役割が、日本ではキャスターという存在に統合されていたのだ。これは今風に言えば、「オピニオンリーダー」、あるいは「インフルエンサー」のようなものである。ニュースはこうして顔だけではなく、人格を持つようになっていった。
「脱埋め込み化」とキャスター文化の黄金期
ここで、視点を変えて、やや難解な社会学の専門用語、つまり「脱埋め込み化」を紹介しながら日本のキャスターの特異性を説明したい。繰り返しになるが、アメリカの「アンカーマン」の黄金期は放送局の寡占状態が続いた1960〜70年代だった。そしてちょうど冷戦が終わったころ、ケーブルテレビの普及やCNNの台頭でこの文化が衰退した。しかし、日本のキャスターの黄金期は90年代だったのである。この時期のずれはいったいどのように生じたのだろうか。
「脱埋め込み化」は社会学者のウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズが考え出した概念で、やや乱暴に要約すると次のようになる。「近代」というのは、一般的に「個人」(市民)の台頭を意味すると考えられているが、実は、近代を二つの段階(第一の近代、第二の近代)に分けて考える必要がある。工業化や都市化などの「近代化」の過程を経て、人々の伝統的な共同体が解体され、もしくは再構成されたが、人々は新しい「近代的」組織(労働組合、町内会、新宗教団体、後援会など)に埋め込まれることで自分たちのアイデンティティを安定化させることができた。これは第一の近代にあたる。しかし、第二の近代においては、こうした組織が脱工業化などの過程で衰退していくにつれ、人々はこれらの近代組織からも脱埋め込み化されて、より純粋な「個人」として現実と向き合わなければならなくなる。つまり、以前は自分の属する団体に準じて自分のアイデンティティーや外部の「現実」を捉えることができたのに対して、第二の近代においては人それぞれが世界を中間組織抜きに経験するようになる。
これはやや抽象的な話で、もちろんそれぞれの国の近代化は異なる過程を辿るものだが、社会学者の吉川徹は日本の脱埋め込み化のプロセスを「幻影的標準化」と「覚醒的格差」という二つの段階に分けている。前者(70〜90年代前半)においては、人々は自分が置かれている立場を客観的に捉えられずに、「一億総中流」という集団的な理想に自分を投影させながら生きてきた。世界情勢を知るための情報接触はNHKのニュースや全国紙でだいたい十分であった。これに対して後者(90年代後半〜現在)では、デフレの下で人々は収入や学歴など自分の社会的な階層の属性をより冷静に考えるようになり、より個人的に現実を経験することになる。つまり社会と自分の関わり方を決定するものは、結局「自分」以外にないという考え方が定着するのである。これはいわば個人化の徹底に他ならない。
話がやや長引いたが、キャスターはこの二つの段階を橋渡しするような、言い換えればこの「個人化」という通過儀礼を仕切った「司会者」、もしくは「導き手」のような存在だったのではないだろうか。90年代に視聴率を高めていたニュースショーの意義について、ジャーナリストの吉岡忍も次のように語っている。
「私たちは身のまわりや、目に見える現実だけでこの世界が成り立っているとは考えられなくなった。世界とリアルに出会う必要性をなかば意識的に、またなかば無意識のうちに感じていた。不安や高揚もあったかもしれない。そこに『ニュースステーション』が入り込み、そのあとにそれぞれ工夫をこらしたキャスターニュースがつづく土壌があった」。
つまり、日本のキャスターはある種の「不安」と「高揚」を同時に体現していた。伝統的に社会党の支持層である大都市のホワイトカラー層や、学生、主婦などがこの党に幻滅し、無党派層が増えつつある状況下で、彼ら・彼女らは何よりも、政治や経済、ポスト冷戦の世界の行方について客観的な情報だけではなく、わかりやすい「説明」や「意見」を欲しがった。そして、メディア、主にテレビのニュースショーに頼って「現実」と接することになった。キャスターという存在、つまり組織から完全にフリー(に見えた)「個」は、この脱埋め込み化されつつあった大都市の日本人が経験した、「安心の喪失」と「個人化に対する希望」そのものであった。バブルの崩壊、五五年体制の終焉、オウム事件などの90年代の混乱期を背景にこのキャスターたちは活躍していった。
今から振り返ると、日本のキャスター文化の黄金期は短かった。これはまず、1993年の「椿発言事件」の影響が大きかっただろう。1993年の総選挙の後にテレビ朝日の報道局長、椿貞良が、反自民党の政権を成立させようと番組を企画していたという発言が漏れて、これは放送法の中立公平に反するものだと、自民党や共産党、また保守系の新聞からさんざんなバッシングを受けた。他のテレビ局は本来、表現の自由を守るために一緒に戦うべきだったのに、新聞資本に系列化されていた各局は結局足の引っ張り合いに陥っただけで、テレビ局内では自主規制が進んでいった。また自民党が日本の放送法に対する解釈をより厳しくしたことが、第二次安倍政権とメディアの対立の前触れになったのである。この点においては、キャスター文化の衰退の一因は自民党によるメディア弾圧だと言えるだろう。
しかし、キャスター文化の衰退につながった、より根本的な原因が他にあったのではないだろうか。当然、久米や筑紫が代表するキャスターたちに対して批判も当時は多かった。例えば、メディア学者の渡辺武達は、久米が「放送ジャーナリズムのヒーローであり、茶の間の政治思想形成に絶大な影響力をもつ」としながらも、彼が代表するキャスターたちの限界を次のように述べた。
「たしかに久米宏も、自民党筋からそのアドリブ発言をときおり問題にされてきた。が、それらはすべて日本の社会体制そのものに根本的な批判を加えるものではなかった。収賄事件がおこれば『泥棒は悪い』といい、宮沢前首相が前言をひるがえせば『嘘つきはだめだ』と、小学生でもわかる家庭の正義をテレビ画面で代弁しているにすぎないのである」。
渡辺のこの解釈は必ずしもフェアだと言えないが、久米などのキャスターたちが「自民党」さえ批判すればいい、複雑な問題(特に経済問題)を単純化する節があり、ある種の「わかりやすい」ポピュリズムをなしているという批判は当時よくなされていたことに注目したい。キャスターの意見や批判は視聴者のガス抜きになっていた可能性も否めない。これはまた、明らかにゼロ年代初期に出た小泉純一郎と「小泉劇場」にもつながる。つまり、久米などのキャスターたちは、「自民党をぶっ壊す」とまで言う自民党の政治家にはどうにも太刀打ちできなかったのではないか。この点について、キャスターの黒岩祐治は、
「政治に対して国民の関心が高まったということにおいて見れば、我々は胸を張ってそこのところは頑張りましたと言えるだろうけれども、しかし、見方を変えれば自民党にすっかりジャックされてしまったんじゃないかと、内心忸怩たるものもある、非常に複雑な心境です」
と反省している。
ここでは小泉政権は本当にポピュリズムだったのかを論じることができないが、小泉純一郎のもたらしたテレビ劇場は、鏡のように久米などのキャスターたちを反映していたのではないか。ゆえに小泉現象が「ポピュリズム」だとすれば、当然キャスター文化も「ポピュリズム」になる(実際、政治学者、大嶽秀夫はこれを論じている)。そして、小泉政権のさなか、もしくは直後には、日本の「キャスター文化」を代表する番組が次々と終了したこともこの関係を証明しているように思われる(『ニュースステーション』が2003年に終了、『筑紫哲也NEWS23』が2008年に終了、『サンデープロジェクト』が2009年に終了)。少なくとも、小泉が「キャスター」的な首相だった点において、キャスターは居場所がなくなったと言えるのではないだろうか。
本論の最初に立ち戻ろう。近頃、「キャスター」という言葉をあまり耳にしない。もちろん、この背景には、若者のテレビ離れや、インターネットの普及、自民党とマスコミの確執など、さまざまな構造的要因が絡み合っているだろう。現代のメディア環境が多様化しているから、テレビの力を生かした「キャスター」の影響力が低下してしまったと言えるかもしれない。しかし、本論で示したいのは、現代人はキャスターという存在に幻滅せざるを得なかったという可能性である。キャスター文化を支えていたのは、「権力 vs. 庶民」という対立構造だったが、小中陽太郎の言葉を借りれば、構造改革が叫ばれた2000年以降の日本は「市民 vs. 市民」の時代を迎えた(もちろん権力そのものがなくなったのではないが)。日本社会が個人化という通過儀礼を経てきた今、昔ながらのキャスター文化の再現は望むべくもないだろう。しかし、現在ユーチューブなどで活躍するインフルエンサーたちの活動には、「キャスター」の影が映し出されているのではないだろうか。今どきの「物言う」インフルエンサーたちの文化は、「キャスター文化」の上に築かれていることを忘れないでほしい。
〈参考文献〉
久米宏、『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』、世界文化社、2017年
小中陽太郎、『TVニュース戦争』、東京新聞出版局、1988年
小中陽太郎、「久米宏のいた時代 〜“山手民主主義”が残したもの〜」、『GALAC』12月2003年
嶌信彦、『メディア影の権力者たち』、講談社、1995年(文庫:『ニュースキャスターたちの24時間』、講談社+α文庫、1999年)
田原総一朗、大島渚、磯村尚徳、「ニュース・キャスター論」、『朝日ジャーナル』、6月3日1977年
鳥越俊太郎、田丸美寿々、黒岩祐治、「鼎談・テレビは何を伝えるべきかを慎重に判断し自らも構造改革をすべきでは」、『AURA』6月2001年
筑紫哲也、『メディアと権力』、新潮社、1994年
新藤雄介、「『ニュースキャスター』のふるまい」、『文化人とは何か』、東京書籍、2010年
吉岡忍、「起きれ!TVニュース戦争」、『放送文化』、8月1994年
吉川徹、『現代日本の「社会の心」』、有斐閣、2014年
U・ベック、A・ギデンズ、S・ラッシュ、『再帰的近代化』、而立書房、1997年
渡辺武達、「現代の語り部・久米宏がうける理由」、『潮』、12月1993年