ハインリッヒが撃ったカモ?

12/19/2024
Isamu Kuroda
黒田勇

大阪府北部の吹田市のとってもローカルなはなしです。

1970年の「日本万国博覧会」が開催された千里丘陵、その南の端に吉志部神社があり、その横に釈迦ヶ池というため池があります。1960年代までは竹藪と農家が点在する自然豊かな場所でしたが、そこに「千里ニュータウン」という巨大団地が開発され、その南に名神高速道路が走り、万国博が開かれ、景色は一変しました。さらに半世紀以上が経過していますが、いまから140数年前の1880(明治13)年に、この釈迦ヶ池を舞台にして「国際」的な大事件が発生しました。

1880年2月7日、「プロイセン皇孫吹田遊猟事件」として知られる事件です。通説では、「大阪府島下郡小路村(現吹田市岸部北)にある禁猟の釈迦ヶ池で、神戸に滞在していたドイツ皇帝(プロイセン国王ヴィルヘルム1世)の孫ハインリッヒがお供を連れて鴨猟をした。七尾村の井田元吉がそれを発見、皇子を殴打し、プロイセン王国側が日本に抗議、外交問題に発展した」とのことです。

日本滞在中のハインリッヒ(右前)とその一行。

この事件は民話として今も残り、『カモとはらきりじいさん』(岩崎書店、1977年)という絵本にもなっています。

歴史的な事実については、山中敬一関西大学名誉教授による『プロイセン皇孫日本巡覧と吹田遊猟事件』(成文堂、2022年)が参考になります。

1870年に成立したドイツ帝国は、太平洋への進出も狙い、ヴィルヘルム2世の命を受けたその弟ハインリッヒの一行が1878(明治11)年10月にプリンツ・アダルベルト号で南米とハワイをまわり、1879年 5月に横浜港に入港、当時の日本政府は彼らを歓迎しました。彼らは1年間も日本に滞在し、その間、神戸港にもやってきました。しばらくの神戸滞在、とりわけ船内での宿泊や生活にかなり退屈していたようです。

プリンツ・アダルベルト号

12月7日、ハインリッヒ一行は開通間もない鉄道で神戸から吹田駅まで来て、そこから徒歩で釈迦ヶ池に向かいます。 釈迦ヶ池で、鴨の密猟の見張りをしていた井田元吉とハインリッヒ一行がトラブルになりますが、事実は通説とは異なり、元吉が随行の日本人やドイツ人に暴行を受けたようです。

駆けつけた警官たちはハインリッヒ一行を慎重に尋問しましたが、彼らは名乗らず、結局吹田から大阪府庁まで歩き、そこでも名乗らなかったため、知事に面会できないまま、最終列車で神戸まで帰ったといいます。

ところが、翌8日ドイツ領事が大阪府へ抗議、公使も外務卿井上馨に抗議電報を送ります。彼らは、皇孫に対する「不敬」と「治外法権」を主張しました。渡邊昇(のぼり)大阪府知事は、「安易な妥協で謝罪や処分をすべきではない」と、日本政府の弱腰に抵抗しますが、「不平等条約」のもとで大きな外交問題に発展することを恐れた井上馨の命令で、日本側の処罰と謝罪という結論となります。そして事件から一週間後の12月14日に吉志部神社と大阪府庁で「謝罪式」を行い、ここで、「ハインリッヒ殿下一行は日本国の法律を順守していた」との公式文書を手渡して決着します。

「民話」では、元吉じいさんは謝罪式に引き出され、知事から切腹を命じられ、知事は耳元で囁きます。「お前は芝居好きだろう。芝居のように切腹の真似をするだけでいい。ドイツの王子さんはそれで納得する」。それで、元吉は大芝居を打って切腹の真似をして話はめでたしめでたしとなります。

元吉は、この事件の37年後、1917(大正6)年に「釈迦ヶ池を見下ろすクスの木の下で、眠るように大往生を遂げた」という話も伝わっています。彼は1845年6月生まれとのことで、享年72歳でした。ということは、事件の起こった1880年には35歳で、決して「元吉じいさん」と呼ばれる歳ではありません。民話としては、元吉が屈強な壮年男性では興ざめになったのかもしれません。

さて、歴史に戻ると、この時の吹田署の警察官10名が免職・減俸となりました。さらに、この事件を「無法の髭奴が我を恐喝せんと」、「わが法規をやぶって、国民に凌辱を与えんとする」などと報道した各新聞は、「国安を妨害するのみならず、外交上多少の障害を生じ、不都合」などとする理由で発行停止処分となり、大阪日報編集長は罰金のうえ禁獄5ケ月、朝日新聞、京都日日新聞編集長も処罰されました。これには国民の反発も大きく、明治政府への信頼を著しく損ねる事件となりました。

吹田市内の他の池にも鴨がたくさん渡ってくる

さて、ここからは現代の話です。地元吹田市でも、この事件はもうほとんど忘却の彼方にありました。ところが、今年になって、急な動きが出てきました。

吹田市内の居酒屋で「鴨鍋」を肴に飲んでいた人たちのなかで、「そういえば吹田は鴨で有名だったんだ」という話となりました。主人が「昔は吹田で鴨鍋を出す店が多かったと聞きます」と加わります。山中さんの著作を思い出した人が、「吹田グルメで鴨を売り出せば面白いね。『プロイセン鴨』とか『ハインリッヒ鴨』とか面白いよ」と続きました。

事件当時から唯一残る「うお常」。戦前は「鴨鍋」を供していたと語る主人。

酒酔い話で終わるはずが、それから数週間後、鴨についてのイベントをやろうという企画が提案され、飲食店や市民の方々もこの話に乗ってくれました。

そして今年9月に「ハインリッヒが撃った鴨」というシンポジウムを開催、先の山中敬一教授の話を聞き、その後、有機農法で吹田名産のクワイや野菜を作る平野紘一さん、ボランティアで吹田の河川の自然環境を調査している岡本陸奥夫さん、吹田野鳥の会会長の平軍二さんなどが吹田の食材や自然について熱く語りました。

2024年9月15日に吹田市文化会館にて開催された「ハインリッヒが撃った鴨」シンポジウム

そして、次のステップへと進みます。この「ハインリッヒの鴨」をメディアとして、いくつかのメッセージを発信していこうというわけです。

まずは、吹田は、南部の古い町と北部のニュータウンを抱えて、いわば「南北問題」が存在します。南北で違う文化と生活圏があり、交流も少ないようです。そこで、南北の境界付近にある釈迦ヶ池の歴史、「ハインリッヒの鴨」を通して、歴史も自然も豊かな「私たちの吹田」を語ろうというものです。吹田市民が「吹田の主人公」となって幸せに暮らし、ときには地域の課題に一緒に向き合えるような「吹田アイデンティティ」の中核に「ハインリッヒの鴨」を、とは少し大げさかもしれませんが。

もう一つ、吹田は鴨鍋を出す店も多かったとのことから、「ハインリッヒの鴨」でグルメの町吹田を復活させようという企てです。鴨鍋だけでなく、鴨ローストや鴨ソーセージなど、吹田の飲食店で、「ハインリッヒの鴨」料理でつながってもらおうというわけです。

「ハインリッヒの鴨フェスタ」をやろうという少し前のめりの方々もでてきました。

でも、「ゆっくりどっしり構えましょう」というのが、大方の意見です。まず、「ハインリッヒの鴨」が面白いと思った飲食店で、好きなように鴨料理を出しておしゃべりをしようということになりました。「ハインリッヒって知っている?」から始まり、「吹田って鴨がいっぱいいたんだよ」とか「むかしは鴨鍋で有名だったらしい」とか、そんな会話が進むことをまずは期待しています。

この冬、鴨の肉と140年前の国際的事件を「メディア」として、吹田市民の楽しいコミュニケーションが始まります。

吹田市のレストラン「サン・スーシ」で出される「鴨のロースト」

※画像はすべて筆者提供。冒頭は現在の釈迦ケ池。