頭のなかに「空き地」をつくる:山下陽光「0円ショップ」の経済実験   

22.09.27
Kenichiro Egami
江上賢一郎

2020年2月17日から24日の一週間、「0円ショップ」という名前のイベントが福岡市内のギャラリー「art space tetra」で行われた。このイベントを企画した山下陽光(ひかる)は、大胆な色彩や造形で古着をリメイクする服飾ブランド〝途中でやめる〟の主宰であり、賃労働とは異なる自立した仕事づくりの指南書『バイトやめる学校』の出版や、路上で見つけたモノや行為に新たな価値や物語を付与する「新しい骨董」などの多彩な活動で知られている。0円ショップは、もともと彼が東京・高円寺で古着屋を営んでいた時期に、既存のファッションビジネスのあり方に対する違和感から、店の古着や小物を0円で販売するという実験として始まった。

「お客さんが払ってお店が儲かる。その図式を成立させるために100仕入れて70売れて残りの30を安売りして残った10を捨てるようなやり方はそろそろ終わりにして、みんなが持ってきてくれたものが価値になると最高だし、それよりも自分が不要なものを誰かが欲しがってくれるとうれしい。これは物だけに限らず、自分が持ってる技術を0円で披露してもいいし、とにかく、GoogleやツイッターやYouTubeが無料で使えて最高な感じを実際の場所でも地続きでやってみたい」

―― 山下陽光「0円ショップ」呼びかけ文より

もちろん各地に無料でモノをやりとするマーケットやイベントは多くあるが、0円ショップはあくまでも「店」という枠組みを残したまま私たちがネット上で慣れ親しんでいる無料(フリー)の感覚をリアルな場で体験する仕掛けである*1。 もちろん実店舗である以上、店内には何かしらのモノが必要となってくる。そのため山下と友人の編集者O氏は1週間前からSNS上で「自分は必要ないが誰かが欲しがってくれるとうれしい」モノの提供を呼びかけ、自ら軽トラックに乗り込んで市内の友人や知人たちからさまざまな物品を収集し、ギャラリーに並べていった。

オープン当日、会場のドアには「0円ショップ」と刺繍された紅白の暖簾が掛けられ、室内には洋服、食器、本、漫画、アクセサリー、小物などが賑やかに陳列され、ギャラリーはまたたく間に古道具屋風の店内へと変わっていった。偶然通りがかった近所のひとや、友人知人、学生、旅行者らが次々と暖簾をくぐり、全て0円であることの驚きと物珍しさが相まった様子で、並べられた品々を一つ一つ見品定めして、お気に入りの品を持ち帰っていった。とりわけ印象深いのは、会期中、店内でさまざまな出来事が起きていたことだ。初日に店内に置かれていた外国製の椅子を見つけて「これほんとうに0円なんですか!?」と驚いた向かいの床屋の主人に、山下が「そうなんですよ、持ってってください!」と即答する掛け合いにはじまって、隣の居酒屋の主人が棚にあったマンガ全巻を持っていく代わりに、自分の店にあったマンガを0円ショップに持ってきたこと。また自家製の梅酒を持参したひとが自発的に周囲に振る舞い始めたり、偶然立ち寄った旅行者が主催者たちと一緒にラジオ収録を始めたりと、0円ショップ内では普通の店舗とは大きく異なる会話、振る舞い、活動が次々と生まれていった。主催者もいつ誰がモノを持ち去ろうとも少しも気にせず、また誰かが時折勝手に自分のモノを持ち込み置いていった。会期後半になると、0円ショップはすっかりまちの集会所、近所の子供たちの格好の遊び場になっていた。

このように0円ショップとは、「自分は必要ないが誰かが欲しがってくれるとうれしい」という商品とゴミの「あわい」にあるモノたちを収集・陳列し、それらを全て0円(タダ)で提供するというコンセプトによって成り立つ特異な店だ。常識から考えるとモノをタダで販売するというのは不謹慎な行為に映るかもしれない。しかし、0円とショップという一見したところ矛盾した2つの言葉の組み合わせは、私たちに一つの問いを投げかけている。それは、もし既存の経済の仕組み(金銭を介したモノやサービスの売買)が一時的に無効になった場合、ひとは金銭のやりとりなしにどのようにモノやサービスのやりとりを行うのか、という問いである。0円ショップに来てくれたひとたちのなかには店内の品物を見定めそのまま持ち去るひとたちもいたが、同時に主催者や訪れたひとたちとのあいだでさまざまな会話、振る舞い、活動が生み出されており、そのような店の様子を山下は「景気がいい」と表現していた。

一般的に景気とは社会におけるお金の循環であり、お金が1円も回っていないにもかかわらず景気がいいという表現は不思議に聞こえる。けれども「景気」の語源にはもともと和歌や水墨画のなかで表現されていた風景の雰囲気/余情のあり様、つまりある場所におけるひとやモノの気(エネルギー)の自在な流れや循環という意味が含まれているという。そうであるならば、彼のいう景気とはお金ではなく、モノを介した人と人との出会いのなかで生まれる会話、行為、関係性が、ある場所において充満し循環している様子を指しているはずだ。そのとき、0円ショップではモノが商品ではなくある種の「贈り物」として存在していること、店の役割は商品の売り買いの場ではなく、贈り物を贈る/受け取る場へと変化していることに私たちは気づくだろう。

フランスの人類学者マルセル・モースは著書『贈与論』のなかで、世界各地の民族に見られる贈り物の授受の慣習のなかに人類の経済の古層を見出し、それを「贈与経済」と呼んだ。贈与経済の世界ではモノには贈り主の人格や魂の一部が含まれており、お金ではなくモノに宿った魂が個人を超えてさらなるモノやサービスの循環を促していくと考えられていた。一見非合理的な説明にも聞こえるが、実際には「個々人が自己の利益の最大化を動機として行う取引」という近代経済学のモデルとは異なり、集団間で贈り物の贈進・授受・返礼の義務を相互に担うことで、経済だけでなく道徳、法、宗教を含んだ社会全体として財やサービスをやりとりするような互恵的な社会関係が贈与というかたちで反映されている。そしてモースは贈与経済を単に非-西洋社会の風習として捉えるのではなく、協同組合や共済といった資本主義を下から乗り越える民主的な経済モデルとして再生させる道筋を考えていた。

その意味において、0円ショップもまた資本主義とは異なる経済のあり方、つまり貨幣や商品という枠組みの外部でモノやサービスを相互に授受していく贈与経済の一つの試みだと言えるだろう。ただし、0円ショップの方法論がモースのいう贈与経済と全て一致している訳ではない。0円ショップに集められたモノの大部分は、資本主義経済のなかで生産・流通・消費されており、またモースが贈与経済の成立条件として挙げた返礼の義務や、モノを贈り主の人格の一部として捉える視点は0円ショップの活動に含まれていない。何より0円ショップが贈与経済として機能するには、その運営自体を持続可能にする必要がある。

その上で0円ショップの意義は、私たちの頭のなかに一種の「空き地」を生み出すことにあるように思う。資本主義の社会ではあらゆるものに値札がついており、日頃この値札の数字を通してモノ、他者、世界が判断・評価されている。そしてモノやサービスはひとびとの実際の必要に応じてというよりも、数字によって表される成長や利益の最大化を目的に不均衡なかたちで生産・消費されている。しかし、0円ショップはこの数字のマジックを一時的に宙吊りにし、リアルな場所でモノをモノそのものとして見つめ直す時間と空間を私たちに提供している。重要なのは、0円はモノそのものではなく、モノを捉える私たちのまなざしを変えているという点だ。そしてそれは、モノだけでなくひとや世界の見方へと波及していく*2。 0円ショップの期間中に生まれたさまざまな出来事は、ひとびとがそこで出会ったモノやひとを自分の頭のなかの空き地に招き入れて、新たな関係性を創造していった結果であり、贈与経済の社会にもし景気というものがあるとすればそれはどのようなものか、その相貌の一部を私たちに教えてくれるのだ。

*1 同時に、GAFAに代表されるこれらのネットサービスは、実際のところユーザーの情報収集によって莫大な利益を得ている事実は指摘しておきたい。

*2 東京都・国立では別のグループが継続的に「くにたち0円ショップ」の活動を継続しているが、参加者のひとりは「0円ショップは、そこでいいモノを見つけるというよりも、この場所での出会いやおしゃべりが楽しくて継続している」と話している。