「超低遅延」の不気味

10/02/2022
Atsushi Udagawa
宇田川敦史

コロナ禍以前のことだが、あるイベントで、「5G」と呼ばれる次世代携帯通信システムのデモンストレーションを見学する機会があった。「5G」は第5世代の通信システムを意味し、このところ携帯電話会社が、「バラ色の未来」として盛んに喧伝している技術だ。特にコロナ禍以降は通信需要の高まりに呼応して、社会的な期待も高まっている。5Gの特徴は、通信がさらに高速・大容量になるということだけでなく、「超低遅延」にあるという。これまでの通信技術では、遠隔地から発信された情報を受信し認知可能となるまでに、一定の遅延が避けられなかった。古くは衛星放送の中継映像でおなじみだが、最近ではZoomなどのオンライン会議で、映像や音声に一定の「間」が発生したり、発話のタイミングが重なったりすることでその遅延を実感することも多いかもしれない。しかし5Gが導入されれば、この遅延が、人間の身体が気づかないレベルまで極小化されるという。

私が見学したデモンストレーションは、東京と神戸にいる人間同士が、サッカーボールを擬似的にパスし合う、というシステムだった。まず一方の人間が、遠隔地の相手が映る巨大なディスプレイに向かって、プロジェクターで床面に投影されたサッカーボールの像を蹴る。そのボールはディスプレイの「向こう側」に飛んでいき、相手はそのボールを蹴り返す。今度はそのボールがディスプレイの境界から「こちら側」に飛んできて、また蹴り返すことができる。音声や映像を介した会話であれば、遅延があっても「間」を置くことでタイミングを合わせることができるが、サッカーのパスのような身体的な所作を伴う文字どおりのキャッチボールは、遅延があるとうまくいかない。遠隔でありながら「同時」であることを実現するのが、5Gのテクノロジーだ、というわけである。

たしかにボールのやり取りのタイミングは「自然」で、これをVR技術によって360度の映像で表現すれば、同じ場所にいない人間同士が実際にサッカーをできそうな「同時」性がある。しかしこれを目の当たりにしたときの私は、新しいテクノロジーのワクワク感よりも、薄ら寒さ、不気味さともいうべき感情をもたずにはいられなかった。

それはおそらく、メディアが、その媒介性を極限まで透明化し、その存在自体の隠蔽が「完璧」な次元に近づいているからではないか。先述のとおり「超低遅延」とは、メディアが媒介することによって発生するタイムラグを身体に知覚できないレベルまで極小化させることだ。つまり、身体にとってメディアは存在しないのと同じなのである。一方で、それを実現するテクノロジーは高度で複雑であり、新しく不安定なものだ。そのテクノロジーが予定どおり動作しなかったとき、われわれの体験はどうなってしまうのか。それを想像することの困難さと、身体の無自覚さとのギャップが、不気味さの元凶にあるのではないか。つまりこの不気味さは、通信相手の身体が十分「リアル」に見えるにもかかわらず、実際に「ここ」にあるのは機械であって身体ではないという両義性から生じている。これは、ロボットの姿が人間の「リアル」に十分近づくと、その不気味さが急に増すという「不気味の谷」現象と同型的だ。いわばこの不気味さは、メディアが想定外の、異和的な作動の可能性に開かれていることを覚知した身体からの警告なのだ。

5Gが「超低遅延」であるということは、これまでメディアに媒介させることが避けられてきた行為にも、その応用範囲が広がる可能性を含んでいる。たとえば、遠隔手術だ。熟練の外科医の手さばきを、「超低遅延」で遠隔地の患者に適用する手術ロボット(というメディア)が、すでに開発されつつある。また、近年話題の自動運転においても、「AI」のプログラムやデータを、自動車本体ではなくクラウドに格納し、状況判断も車両制御も遠隔で実行できるようになると言われる。「超低遅延」なので、AIがクラウドでも遅延なく、とっさのブレーキも間に合う、というわけだ。こうなると、不気味さは増すばかりである。

翻ってみれば、メディアのテクノロジーは、その空間的・時間的な解像度を上げることで、より「リアル」なコミュニケーションを実現しようと発展してきた。8Kテレビ放送や、Macの「網膜(retina)」ディスプレイはその典型だろう。5Gは、いわば時間的な解像度を高めるテクノロジーだ。もちろん、5Gが実現したからといって、メディアとリアルがただちに識別不能になるわけではない。しかし、メディアの解像度を上げようという社会的な欲望は、衰えることがないようにみえる。実際私たちは、今のオンライン会議システムの解像度の低さには大いに不満をもっているのだ。であるならば、解像度がリアルを追い越すメディア環境は、そう遠くない未来に実現するのだろう。「不気味の谷」現象では、ロボットが完全に人間のコピーと見分けがつかなくなったとき、その不気味さが消失してしまうという。われわれはその「不気味の谷」を、まさに越えようとしているのだろうか。