フィクションから現実を問い直す:
小鷹拓郎《ダイダラボッチを追いかけて》を通してみる地域と芸術祭の新たな関係
長野県大町(信濃大町)は、北アルプスへの玄関口でありかつては糸魚川から信濃へと塩を運ぶ街道として栄えた町である。この街を起点に2017年からはじまった「北アルプス国際芸術祭」は、大町の市街地や周囲の田園、湖畔や森林、集落を舞台に国内外から招聘されたアーティストたちが、長野の自然、歴史、文化に応答するかたちで制作したサイトスペシフィックな作品群を特徴としており、今回で3回目の開催となった。
参加アーティストのひとりで映像作家の小鷹拓郎氏の作品《ダイダラボッチを追いかけて》は、廃校となった旧大町北高等学校で展示されていた。小鷹氏はこれまで日本国内外のさまざまな場所に「よそ者=アーティスト」として入り込み、その地に内在する問題にあえて焦点を当てた映像作品を制作してきた作家である。校舎2階の元視聴覚室に入ると、3面に展開するスクリーンが設置されており、観客はソファや椅子に座って映像を鑑賞する。その内容は小鷹氏が大町の人々に伝説の巨人「ダイダラボッチ」1
についてのインタビューを行い、地元の市職員、学芸員や画家、農家、猟友会のメンバーらにそれぞれの視点から巨人について語ってもらうというもので、その合間にはドローンで撮影された冬の北アルプスの雄大な山々、のどかな田園風景が映し出され、街の歴史や文化が巨人の伝説と重ね合わされていく。
観客は、すぐに登場人物たちが「ダイダラボッチ」を実在するものとして語っている(=演じている)ことに気づく。市職員はダイダラボッチの出現によって街にかつての活気が戻ることを期待し、学芸員は巨人の骨の出土や現代における生態の変化について解説する。画家はダイダラボッチとの出会いを語り、猟友会はその捕獲方法を実演してみせる。しかし、各々が語るダイダラボッチの像は微妙に異なり、完全には一致しない。小鷹氏の映像作品の特徴として「モキュメンタリー」と呼ばれる手法がある。モキュメンタリーとは「mock(まがいもの)」と「documentary(実録)」の合成語であり、ドキュメンタリーの手法を用いつつ、あたかも事実であるかのように撮影されたフィクション作品を指す。
しかし、インタビューが進むにつれ、ドキュメンタリー風のフィクション映画(モキュメンタリー)から、フィクションを介して現実を語り始めるドキュメンタリーへと反転していく。それは「ダイダラボッチ反対運動」を行う住民たちへのインタビューである。移住者や農業従事者が「ダイダラボッチ」の出現が街に与える影響について切実に語り始め、信濃大町の田園風景の喪失、町の分断、住民の立ち退きなど、具体的な懸念を表明している。市職員が語った期待とは対照的であり、観客はここで彼らの語る「ダイダラボッチ」がこの街で進行している道路建設計画という公共事業のメタファーであることに気づく。作品の後半では「ダイダラボッチやめろ」デモが住民有志によって行われ、小鷹氏はデモに同行・撮影している。芸術祭への出品作品の撮影という名目で行われたこのデモは、この町ではじめての道路建設反対デモでもあった。強い日差しが注ぐ市街地の午後の静けさのなか、警察の先導で、幟を掲げ、太鼓やトランペットをならしながら「ダイダラボッチ反対」と声をあげて街の中心部を行進する参加者たちの姿と声は、ささやかながらもあっけらかんとした明るさ、祝祭性を伴っていた。
小鷹氏は、今回大町でのリサーチを進める中で、「北アルプス国際芸術祭」を主催する大町市が道路建設計画を推進していることを知り、さらにその計画に反対する住民たちと出会う機会があったのだろう。自身が参加する芸術祭の主催者である行政が進める道路計画によって、表面上は平穏に見えるこの街に内在する矛盾や緊張関係が生じていることに気づいた氏は、アーティストとしてこの問題を取り上げることを決め、反対運動を行う出演者との関係性を築きつつ、この問題を展覧会のなかに持ち込む手法として「ダイダラボッチ」伝説を用いたのだ。
2000年代以降、日本では地域復興の一環として、文化芸術、特に現代アート展を活用した地域芸術祭が全国に広がってきた。こうした地域芸術祭には、人口減少や高齢化、地域経済と産業の衰退といった課題を抱える地方において、観光振興や地域活性化、関係人口の増加などが期待されている。また、アートの側も地方での文化活動や作品展示の機会として受け入れてきた。しかし、行政や地元企業の支援を受ける地域芸術祭では、テーマや出品作品において政治的・社会的な内容が避けられる傾向が少なくなく、批評家の藤田直哉は「地域アート」という言葉を用いて、地域芸術祭の観光資源化による作品の政治性や批評性の排除という問題を指摘している。
小鷹氏の作品は、これまで芸術祭で公に語られることが少なかった地域社会の問題について、フィクションの体裁をとりながら接近することで、当事者からさまざまな語りを引き出し、最終的に芸術祭の場へと持ち帰り、公開することによって、新たな議論や反響を生み出していく。それは既存の地域芸術祭の傾向に対するアーティストの側からの批判的介入・ハッキングの方法ではないだろうか。この作品が公開されたとき、行政や関係者からは非難の声が上がったという。確かに、このように行政批判を含む内容やハッキングは主催者の望むものではないかもしれないが、アーティストが行政を含む主催者の内部の論理に収斂せず、芸術祭を、地域振興の枠を越えて鑑賞者が地域の人々の多様な声と出会う受け皿として積極的に活用しているとも考えることができるはずだ。
また、この芸術祭の期間に合わせて、道路建設問題を正面から取り上げた作品が市民有志によって制作・設置されている点も記しておきたい。10月初旬、道路計画予定地には《松糸道路実寸大アート》と名付けられたインスタレーション作品が出現した。これは芸術祭の公式作品ではなく、道路計画の見直しを求める「大町の未来を考える会」の有志が、計画予定の道路の盛り土のサイズを竹で編み込み、実物大に再現したものである。一見、巨大なインスタレーションのようだが、公共事業として抽象化されていた道路が竹の構造物として具体化されることで、道路が地域や暮らしに与えるインパクトが可視化されている。また正面には、制作年や素材、制作コンセプトが詳細に書かれたパネルが立てられ、鑑賞者に道路完成後の街の姿や暮らし、環境への影響、そして住民の声を伝えている。実際、私も小鷹氏の作品を通じて道路問題を知り、この竹のインスタレーションが立つ道路建設予定地を訪れた。こうして、鑑賞者が芸術祭の公式ルートを離れ、街の問題や地域の人々の声に直接触れる新たな視点を得ることを可能にした。この取り組みは、観光アートの枠を超え、地域と関与・協働しながらエンパワーメントを図るアートの意義を示しているといえる。
このように小鷹氏の映像作品は、フィクションの持つユーモアと柔軟性を活かし、現実との間を螺旋的に行き来しながら、これまで語られることのなかった問題を浮かび上がらせることで、芸術祭の枠を超えて大町のコミュニティや行政にも間接的な影響を与えている。そのアプローチは、展覧会と主催者のコンセプトに批判的に「介入」し、地域の現実に向き合いながら「協働」するアートのあり方を示唆している。彼の作品と《松糸道路実寸大アート》はそれぞれ別々に制作されていたが、両者はともに地域の課題を可視化し、住民や鑑賞者が地域の現状や未来を考え、意見を交わすためのメディアとして共鳴している。これらの作品は、地域の「手づくりの民主主義」を築こうとする人々の取り組みに寄り添い、新たな議論と対話を促す「地域行動主義的アート」としての意義を持つだろう。もちろん、その手法には荒削りな点や不和を引き起こす恐れもあるかもしれない。しかし、このような作品や制作のあり方は、観光や地域振興を超えて、想像力を媒介として地域住民が地域の課題について発言し、行動するエンパワーメントの契機を提供し、地域住民、主催者、アーティスト、観客を巻き込んだ議論と対話を促すという意味において、地域芸術祭やアートが新たな公共圏としてその意義を拡張させる契機にもなるはずだ。
- 伝説の「ダイダラボッチ」についての言い伝えは日本各地に残っているが、長野県大町市北部の仁科三湖(青木湖、中綱湖、木崎湖)にもかつてダイダラボッチの足跡であったという言い伝えが残っており、本作品はこの言い伝えに触発されて制作された。 ↩︎
※写真はすべて筆者による撮影。冒頭は小鷹拓郎《ダイダラボッチを追いかけて》(2024) の展示風景。