記憶から記録へ

22.12.12
Atsushi Udagawa
宇田川敦史

2020年から続くコロナ禍は、私たちの生活のさまざまな場面で大きな変化をもたらした。いわゆる「密を避ける」という生活様式とともに、普及の兆しを見せているもののひとつとして、「キャッシュレス決済」が挙げられる。特にICカードやスマホアプリを活用し、店員との直接接触を回避できる「非接触型決済」は、決済サービス業者の派手な宣伝も手伝って、利用者が増加しているという。

振り返ってみると、このキャッシュレス決済、コロナ禍を契機に広まったわけではない。コロナ禍のインパクトがあまりに大きいために忘れがちだが、2019年10月1日、消費税が8%から10%に上がると同時に、その軽減策として「キャッシュレス・消費者還元事業」が開始され、一気にキャッシュレス決済サービスが乱立するようになったのだ。当時の複雑怪奇な制度と、「〇〇ペイ」の乱立に混乱した人も少なくなかっただろう。この制度の複雑さは、政府が増税の目くらましに意図的に仕掛けたのではないか、と疑いたくなるほどひどいものだった。実際、メディアの報道もキャッシュレス還元の複雑さや混乱への批判が中心となり、増税そのものの是非に関する議論は後景化してしまっていた。

では、2014年4月1日のことは覚えているだろうか。この日、消費税が5%から8%に上がったわけだが、やはりもうひとつ、「キャッシュレス」に関わる変化があった。JR東日本をはじめ、主に関東地方の鉄道会社が「IC運賃」を導入し、SuicaやPasmoなどのICカードを利用する場合と、現金で切符を購入する場合とで、異なる運賃を設定するようになったのだ。消費税率の変化のタイミングで、ICカードは1円単位、切符は10円単位の運賃体系に移行したのである。たとえば山手線の初乗り運賃は、ICカードだと133円だが、切符だと140円だった(2014年4月1日の運賃改定時)。

東日本に限定された話で恐縮だが、普段ICカードを利用している人の中には、運賃がいくらなのか、それが1円単位なのか10円単位なのかなど、あまり意識していない人が多いのではないだろうか。少なくとも私は、日常的な鉄道利用において、運賃を正確に把握しているとはいい難い。かつて毎回切符を購入していた頃には、確実に把握していたにもかかわらず、である。

私自身はコロナ禍以前から、「キャッシュレス派」である。鉄道利用だけでなく、普段の買い物においても、クレジットカードや電子マネー、スマホアプリ決済などを積極的に利用するタイプだ。小銭でお釣りのやりとりをしなくて済むこともあるが、それ以上に、記録が残ることで家計簿をつけやすくなることが大きな理由だ。つまり、私がキャッシュレスというテクノロジーに求めているのは、自分が何にいくら払ったのか、確実に記録が残るようにし、家計を管理することである。しかし実際はどうだろう。キャッシュレスで買い物をすると、ICカードで鉄道に乗るのと同じように、金額を正確に覚えていないことが多い。いや、確認はしている。だが覚えないのだ。

それは、「お金を払う」という経験が「記録」として外部化・客観化されることで、記憶をしなくてよい、という意識が働くからなのかもしれない。管理したかったはずの家計は、外部のメディアに記録されることで意識から疎外され、結果的に管理を放棄してしまうという逆転が起きているのだ。このとき、記録メディアは、身体(の記憶域)を拡張すると同時に、経験的な記憶を身体から切り離し、客観的な記録へと転換してしまう。結果として身体の記憶自体は失われてしまうわけだ。これはメディアのテクノロジーがもつ両義性を示している。自動車の普及が身体の歩行能力を弱めたように、記録メディアの普及は、身体の記憶能力を弱めているのかもしれない。携帯電話の普及で電話番号や待ち合わせ場所を記憶する必要がなくなったことは、一定の年代以上であれば多くの人が実感しているだろう。

キャッシュレスは、単に記憶を外部化しているだけではない。外部化された記録は「行動履歴」として、企業のデータベースに残ることになる。いわば、記憶を記録として売り渡しているのだ。「ポイント還元」はその対価でもある。われわれは「ポイント還元」と引き換えに、お金を払ったという経験の実感を、さらにはその記憶自体を、失っていく。いくら払ったのか正確に覚えられない、というマジックによって増税の痛みは巧みに隠蔽されてしまった、ということなのだろうか。