《佐倉統のフィールドノート②》
韓国の仁川と日本の横浜が似ているという話
〜西洋近代化の尺度としての科学とオーケストラ〜

08/09/2023
Osamu Sakura
佐倉統

「仁川(インチョン)? まあ、日本の横浜みたいなところですね」──ぼくが仁川に行くと言うと、韓国の知り合いの誰もが異口同音にこう言った。港町だし、中華街あるし、と。そして、実際そうだった。

仁川といえば国際空港がまっさきに思い浮かぶが、空港以外に何があるか、正直なところまったくイメージがなかった。しかし、ちょっと意外なことに韓国で人口が第3位の大都市で(2位は釜山)、ソウル近郊圏として発展を続けているだけでなく、韓国に西洋近代文明をもたらした玄関口であり、韓国近代化の出発点でもある。韓国の中でも独特の位置を占める、奥の深い都市なのだ。

仁川と横浜が似ているというのは単なる表面的なものではなく、両国の文明史の過程そのものに共通点があることを意味する。韓国と日本という、非西洋文明にあって一定の教育文化水準を持っていた国が、西洋化という名の近代化を外から強要され、それに応じて教育制度をはじめとする国内諸制度を変革していった、その西洋近代化の最先端の窓口が、韓国では仁川、日本では横浜だった。

横浜は、いろいろなものの「日本初」を誇っている。ビール工場、製パン業、アイスクリームなどの飲食物もさることながら、電話や鉄道といった近代社会のインフラの始まりが横浜だ。仁川も、韓国最初の近代郵便制度のひとつ(1884年)や列車(ソウル−仁川間、1899年)の発祥の地である。中華料理のジャージャー麺を韓国風にアレンジしたチャジャン麺も仁川中華街が起源とされる(あんまり美味しいとは思えなかったけど。「元祖」が必ずしもベストでないのも万国共通)。

さらに、単に「起源」としての共通点だけではない。「今」の姿も共通する。横浜は埋め立て地のみなとみらい地区が再開発されて、おしゃれでモダンな商業地域と高層タワーマンションが立ち並ぶ住居地域になっている。仁川でも松島(ソンド)という埋め立て地域が「国際都市」と名付けられて同様の位置にある。

松島の海辺には新しく音楽、美術、演劇の総合施設であるアートセンター仁川が建設中で、大きなコンサートホールはすでに稼働しているが、美術館は2024年開館予定とのことだった。仁川滞在中にこのホールでオーケストラのコンサートがあり、仁川フィルハーモニー管弦楽団と京畿フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴くことができた。

オーケストラは、言うまでもなく、ヨーロッパ古典音楽の演奏団体だ。なので、日本や韓国といった非西洋文明国のオーケストラの状況は、その国が西洋文明をどれくらい取り入れて定着させているかのバロメーターになるはずだ。楽器の独奏や歌の独唱であれば、突然変異的に上手な人がいればレベルは高くなるし、欧米のどこかに拠点をかまえて活動することも可能だ。そのような個人の演奏からは社会全体の「西洋化度」は見えにくい。しかし、オーケストラは50人以上、場合によっては100人近くが同時に参加する集団行為だ。当然そこには、社会の縮図が立ち現われてくる。

日本もそうだが、韓国もオーケストラ活動は盛んだ。ソウルには複数の楽団があるし、釜山、光州、大邱など一定の規模の都市はその地域のオーケストラを有して活動している。ソウル近郊でも仁川のほか、富川市、城南市、水原市には自前のオーケストラがあり、富川と城南には立派なコンサートホールもある(韓国全体のオーケストラの数は確定が難しいが、"Musical Chairs"というサイトでは15団体が、"dbstrings.com"では12団体がリストアップされている)。

日本でも状況はよく似ている(2023年現在、日本のプロのオーケストラは33団体である。このほかにも多数のアマチュア団体が活動している)。韓国と日本でこれだけの数のオーケストラがいっせいに西洋古典音楽、それもかなり共通したレパートリー(ベートーヴェンとかチャイコフスキーとか)をせっせと演奏しているというのは、とても興味深い。要するに、西洋近代化の結果は、世界中どこでもだいたい似たり寄ったりになるということだ。ショッピングモールがどこの国のどの都市に行っても似たようなラインナップの店しか入っていないのと同じ現象、すなわち「マクドナルド化」である。

現代の科学も、西洋文明に起源をもつ。そして日本も韓国も、19世紀から20世紀前半にかけての西洋近代化の過程で西洋近代科学の枠組みや手法を積極的に取り入れ、教育制度の中に組みこみ、人材を養成していった。少なくとも日本では、西洋音楽も近代科学も明治期には「文明の最先端の象徴」として、オシャレで「ハイカラ」なだけでなく、世の中を良くしていくために必要なものと認識されていた。農村改良家としての顔ももつ宮沢賢治が、近代科学だけでなく西洋クラシック音楽を愛好していたことはそれを端的に示している。

さて、このように日本も韓国もせっせと導入にいそしんだ西洋近代の科学と音楽だが、現在、どちらもが大きな曲がり角に直面している。おそらくこれは民主主義や市場原理などとともに、西洋近代という大きな枠組み自体の曲がり角であることの一部なのだろうが、その点はここではおいておく。話を科学と音楽に絞る。

西洋近代科学が直面しているふたつの問題は、その方法論そのものが限界に達していることを示唆している。ひとつは「再現性の危機」であり、もうひとつは「査読システムの危機」である。

西洋近代科学は普遍的で文脈に依存しない知識を追究する。したがって、誰かが報告した知識が「本当に」正しいかどうかを、他の専門家たちが追実験や追試験によって再確認する必要がある。何度も再確認できれば、ようやくそれは「正しい」知識と認定される。つまり科学の知識には再現性がなければならない。

しかし現在、この再現性を十分に兼ね備えていない論文が、とくに生命科学や社会心理学などの領域で多いことが問題になっている。「再現性の危機」である。さまざまな要因が複雑に絡み合っているのだが、そのひとつとして、生命現象や社会現象のような複雑な対象では再現性を厳密に保つことが難しいという方法論的な限界があると考えられる。

現代の科学のもうひとつの問題は、発表論文の事前査読制だ。再現性の危機は論文発表後の事後チェック機能の問題だが、こちらは事前チェック機能の問題である。西洋近代科学は、同じ分野の専門家たちが集まる学会や協会という集団において知識をチェックすることでその信頼性を高めてきた。論文を学会誌に投稿しても、このチェックシステムを通過できずに掲載が却下されることは珍しくない。

だが、この事前査読は同業科学者による完全なボランティア作業である。科学者の人数が少ないときはまだしも、現在のように何万人もが同じ分野でしのぎを削り、それに伴って学会誌や専門誌の数も雨後の竹の子のように増えてくると、優れた査読者(すなわち優れた専門家)に事前査読が集中して過剰な負担になり、それを避けようとレベルの低い査読者(二流の専門家)に事前査読を依頼すると、査読が見当外れだったり時間が法外にかかったりといった停滞が生じる。結果として、すでに権威を確立している一流の学術専門誌以外では、質の高くない論文が大量生産されることになる。

そうなると、雑誌の「質の高さ」の尺度化が提案され(被引用指数:Science Citation Index)、「質の高い」雑誌に何本論文を掲載しているかが研究者の優秀さの尺度だという話になる(h-indexなど)。そうすると、その尺度化が行き過ぎて、過度の定量化の弊害が指摘され出す(←イマココ)。

このような状況をひとことで言えば、「科学的な知識生産・流通システムの制度疲労」だと思う。19世紀の、今から見れば少人数の集まりだった学会・協会だからこそ成り立っていた、お互いの無償奉仕による仕組みが、現在の状況にそぐわない事態になっていると言ってよいだろう。現在、事前査読なしで論文を公表できるプレプリントサーバーや著作権を放棄した作品をアップするアカデミックコモンズなど、既存の学術専門誌を経由しない知識生産の方法が模索されている。しかし、まだまだ手探りの状況であり、今後どのようになっていくのか、科学的知識生産がその根本の部分は保ったまま微修正で生き残っていくのか、もう少し大きな変革が不可避となるのか、見通しは立っていない(科学の現状についてのより詳細な議論は拙著『科学とはなにか』講談社ブルーバックス、2021を参照いただきたい)。

ほころびを見せているという点では、オーケストラも同様である。現在のオーケストラ編成の基本型が完成したのは18世紀後半(ハイドン、モーツァルトの時代)で、19世紀を通じて拡大し、20世紀前半から中頃に録音技術の進歩普及とともに最盛期を迎えた。だが、100人近くの楽団員が常駐し、音楽活動を継続していく仕組みを維持するのは経済的にも負担が大きく、アメリカではフィラデルフィア管弦楽団などの名門楽団が破産したり、イギリスでは公的補助金のカットが問題になったりと、仕組みそのものがぎくしゃくしている状況だ。

このような状況をなんとか改善しようと、世界中の多くのオーケストラが地域との密着度を高めたり教育プログラムを充実させたり、コンサートを短時間化して新たな聴衆層獲得を模索したりしている(たとえば、潮博恵『オーケストラは未来をつくる』アルテスパブリッシング、2012にはサンフランシスコ交響楽団のユニークな地域活動が紹介されている)。しかし、オーケストラという仕組みがどのように変化していくのか、見通しは立たない。日本の指揮者・山田和樹は、100年後にオーケストラはあるか?と聞かれて、「ない」と即答している(浦久俊彦・山田和樹『「超」音楽対談 オーケストラに未来はあるか』アルテスパブリッシング、2021)。存続しつづける理由が見当たらない、と。

近代科学でもオーケストラでも、斜陽化するシステムの中で、遅れてそれらの「会員制クラブ」に参加できた日本と韓国は、せっせと水準を上げ、世界の一流と肩を並べるような成果をあげ続けている。

だが、これがいつまで続くのだろうか。続けていくことができるのだろうか。

仁川のコンサートホールはとても立派で、松島の夜景の美しさも相まって、ほれぼれするような環境にある。ソウルに隣接する富川市のアートセンターも昨年(2023年)開館したとのことだ。一国の経済発展から少し遅れて文化が発展するのはどこでも同じだが、この先、経済発展があまり望めない世界的な状況にあって、これらの立派なコンサートホールを維持していくのは相当な負担を将来世代に負わせることになるのではないか。

少子高齢化が進む日韓両国は率先してゲームチェンジャーにならないと自国の存続が危ういようにすら思うが、大阪万博だー、釜山万博だーと言っているようでは、それも期待できそうにない。どうしたらいいんだろうか……?

アートセンター仁川のコンサートホール外観

(写真はすべて著者による撮影。冒頭は仁川市、松島地区の夜景)