《佐倉統のフィールドノート③》
台湾で調査が進まない話
〜「台湾らしさ」とはなんだろう〜
このフィールドノート、第1回と第2回は韓国からだったが、今回は台湾からお届けする。今年(2023年)の8月まで韓国にいた後、9月初旬から台北の国立政治大学に客員教授として滞在している。研究テーマは、台湾における人とAI/ロボットの文化的側面である。
なんだけれども、これがはかどっていない。おもに研究者へのインタビュー調査なのだが、なんだかうまくいかないのだ。この原稿執筆時点で残りちょうど1か月を切った。かーなーり、まずい状況だ。
いったいなぜなんだ? というのがこのエッセイのテーマである。だがその話をする前に、韓国滞在中に台湾への橋渡しとなる出会いがあったのでそのエピソードからはじめよう。今年の6月末から7月上旬にかけて、韓国・大田(テジョン)のKAIST(韓国科学技術院)で開かれた国際環境史学会に参加したときのことだ。この学会自体とても有益で稔りが多かったのだが、何日目かの終わりにそこらの人たちと流れていって一緒に食事した中に、台湾出身で今はオランダを拠点に活躍している40代のアーティストがいた。
当然、おお、台湾の御出身なんですか、ぼく9月から台湾に行きますよという話になる。そしてぼくが「台湾ドラマの《茶金 ゴールドリーフ》1を見ましたよ、とてもおもしろかった」と言うと、彼の目がキラリと光り、ぐぐっと前傾姿勢が強まった。このドラマは、1949年、太平洋戦争が終わって日本から中華民国国民党に統治が移り、台湾社会が大きな混乱と動乱にあった時代、台湾北部の大手製茶企業を舞台に人間模様を丹念に描いた美しくもダイナミックな話である。
ぼくとしては普通にドラマとしておもしろかったと言いたかったのだが、彼の反応はちょっと意外だった。「あのドラマはぼくたちにもぼくたち自身の歴史があるということを教えてくれた。そしてわかりやすく描いてくれた。ぼくたちにとってアイデンティティのドラマなんです。あれを制作する過程で新たに発見された史実もあるんです」。
テレビドラマが社会や民族のアイデンティティの再発見につながるという発想は、それまでぼくにはなかった。また、テレビドラマが史実の発見に貢献するというのも新鮮だった。日本だと、だいたい歴史ドラマは「史実と違う!」と歴史警察からSNSでイチャモンをつけられて炎上していて、ドラマと史実は相性が悪い。
近過去を描いたテレビドラマが民族のアイデンティティを再発見させてくれる国。それが台湾なのか2。
彼の話を聞きながら、ぼくはだいぶ前に台湾中部の台中にある国立自然科学博物館を訪問したときの驚きを思い出していた。台湾最大、アジアでも最大級の科学館は、博物館好き、科学館好きなら必ず訪れるべきところだ。ぼくが見たときは中国医療や気の哲学と科学の関係など、中華圏ならではの展示も充実していてとても楽しめたのだが、一方でどこまでいっても「中国」の科学と技術が延々と続くことに違和感を覚え、同時に、なるほどそういうことかと、台湾と中国の複雑な関係の一端に、今さらながら気づかされもした。
台湾は中国文明の直系の末裔でもあり、並行して独自の歴史とアイデンティティを築いてきた地域でもある。
そんなこんなを頭の片隅に置きながら始まったぼくの台湾生活だったが、安くて美味しい食事三昧で体重は順調に増えていくものの、冒頭に書いたように肝心の研究がいっこうにはかどらない。
こういうテーマで調査をしているんでよろしく、とインタビューを始めるのだが、こちらが狙った話題やテーマに話が収斂していかない。あちらの興味関心に合わせて話が横滑りして行ったり、ぼくが意図するところを明確には理解してもらえなかったり、質問に答えてくれるんだけどうわべだけの話題になっていたり、それでもう少し突っ込むと同じ話題の繰り返しに終始したり、といったことが続いている3 。
はじめのうちはまあこんなもんだろうと呑気に構えていたが、4人、5人とそういう状況が続くと、さすがにあせり始める。ぼくのインタビューアーとしての力量不足なのか? いやいや、韓国では同じ話題、同じ方法でそれなりの知見を得ることができた。原因は違うところにあるはずだ。
それは何なのか? どうしたらこの八方塞がりを突破できるのか? 1か月半ほど、もんもんとこのことを考え続け、最近ようやく気がついたのが、台湾の文化的アイデンティティが空白なのではないかということだ。いや、空白というのは良い表現ではない。誤解を招きそうだ。文化的な多元性が生のまま存在していると言った方ほうがいいかもしれない。
いや、これでもまだ分かりにくいか。たとえば、台湾料理を考えてみる。南部、中部、北部などの地域ごとの違いと、客家(ハッカ)や閩南(ビンナン)人などの民族による違いが絡み合い、多種多様な料理があってどれも美味しい。しかしそれらを「台湾料理」と括ることができるのか。括ってしまえばそれはほとんど中華料理のようなものになってしまうのではないか。
中華料理にも北京、上海、四川などさまざまな種類があるが、「中華料理」としてのなんとなくのアイデンティティはある。中華料理屋にフォアグラを期待していく人はいない。日本料理でもフランス料理でもメキシコ料理でも、どの料理でも同じだ。いろいろなバリエーションが存在するが、全体としてのアイデンティティはある。
だが、台湾料理の場合、このような全体のアイデンティティが難しい。小籠包は中国料理なのか台湾料理なのか。魯肉飯はどうなのか。このように考えていくと、「台湾料理」としてのアイデンティティは霞んでしまい、台北料理なのか台南料理なのか客家料理なのかといった、個々の多元的な下位カテゴリーがむき出しのまま並ぶことになる4。
台湾は、多民族国家である。人数は少ないが16の部族がある原住民5、17世紀以降断続的に中国大陸南部から渡ってきた閩南人(福佬[ホーロー]人)や客家人6、太平洋戦争後に中国の国共内戦に敗れて逃れてきた国民党系中国人、1980年代ごろから増えている東南アジアや中国から新しく移住してきた新住民……。
さらに世代ごとの違いも大きい。日本占領時代に生まれ育った人、蒋介石の国民党強権政治時代に教育を叩き込まれた人、1980年代後半の民主化以降に生まれた若い世代。親子3代で話す言葉も価値観も民族的アイデンティティも異なる。
これらのことは、台湾についての概説書や入門書には必ず書かれている話ではある。ぼくも当然、頭では理解していた。しかし、実際にそういう社会の中で数か月暮らすということは、書物を読んで理解するのとはまったく質の異なる体験だった。時間軸と地域差が絡み合った網の目のような民族と文化の多元性が、濁流のように社会の底を流れ、あちこちで渦を巻いている。日常のさりげない会話、たとえば今度の選挙はどっちが勝つと思うか、とか、この料理はとっても美味しい、とかいったことが、一皮むくとすべて多元的な民族、文化の話につながっている。
日々、そういう状況が当たり前の社会の中で暮らしてきた台湾ネイティブにとって、「人とロボットやAIの関係における“台湾らしさ”ってなんですか?」というあまりにも素朴で無邪気なぼくの質問は、どう対処したらいいのかわからず、戸惑いを呼び起こすものだったのではないか。そもそも台湾らしさっていうのがこんがらがった網の目状態なのだから。
こう考えてみると、日本からフラッとやってきてこんなナイーヴな質問を発する輩のことは、もっとバカにしても良さそうなものだ。お前、なに言ってんの?と。だが幸い、今のところそういう目にはあっていない。むしろ歓迎してくれて、いやいやおもしろい話ができてよかった、などと別の機会に夕食に誘ってくれたりする。台湾の人は親切で優しい。もう少し自分を正当化して言えば、今さらこんな単純素朴な見方に出会ってかえって新鮮で、それなりに考えるところがあったということかもしれない7。
さて、ぼくとしてはそういった民族的・文化的多元性の中で、科学技術に対するイメージがどういう作用をはたすかを明らかにしたいと思っている。科学技術が文化的アイデンティティとの関係で語られることは、いつの時代でもどこの地域でも、珍しいことではない。
たとえば日本なら、自動車やロボットは産業として大きな存在であるだけでなく、日本社会の文化的アイコンとしても機能している。自動車なら、日産スカイラインGT-Xの神話やトヨタのカンバン方式。ロボットなら鉄腕アトムやドラえもんに始まって、ガンダムと攻殻機動隊を経てエヴァンゲリオンに至るラインナップ。これらを見るだけで十分だろう。
自動車もロボットも日本の社会と文化の中に深く根をおろし、社会と文化から影響を受けている。そしてそれだけでなく、社会と文化にもさまざまな影響を与えている。ドイツの自動車産業もアメリカの情報産業も、同様だ。いずれもそれぞれの社会と文化の中に深く埋め込まれている。
では台湾ではどうなのか。どんな科学技術が、多元的で多様で網の目のようにこんがらがった文化的アイデンティティの国において、アイコンとして存在しているのだろうか? 次回、そのあたりについて述べることにしよう。
- 瀚草影視と台湾公共電視が2021〜22年に製作・放映したドラマ。台湾でも大きな話題になり、台湾のエミー賞と言われる金鐘奨で16部門にノミネートされた。2023年11月現在、日本でも複数の動画サービスで配信されている。
- 今にして思うと彼の言いたかった主旨は、蒋介石と国民党の視点からしか語られてこなかった1940年代後半以降の台湾の歴史において、客家(ハッカ)などさまざまな民族と人々の物語/歴史(ストーリー/ヒストリー)があることがようやくテレビドラマの領域でも認識されて台湾国民一般に広く知れ渡った、ということだったと思う。このような動きは現在の台湾の文学や批評などでも盛んなようである。
- 方法論について一言補足しておく。ぼくが採用しているのは非構造化インタビューである。こちらが聞きたい作業仮説を明確にして検証するための構造化インタビューではない。相手がどのようなことを考えていて、どのような問題意識をもっているかを探ることが主な目的だからだ。
- これは統治体(国家)としての台湾の曖昧さに起因するという解釈も可能かもしれない。台湾が独立国家として自他共に認める存在であれば、中華料理と台湾料理のそれぞれが、スペイン料理とポルトガル料理のように相互に独立した文化システムとして認識されるのかもしれない。しかし「文化」の単位として国家を常に想定するのが良いかどうかわからないところもあり、ぼく自身、この問題をうまく言語化できないでいる。それが調査がうまくいかない原因のひとつでもある。
- 台湾では「原住民」が公式の用語として使われている。日本語ではこの語には蔑視のニュアンスがあるので「先住民」が使われることもあるが、この語は中国語では絶滅した民族の意味になるので避けられている。日本語の語感を優先するべきか台湾での用法を優先するべきか、日本語での表記には揺れが見られる。部族数の16は2023年現在台湾政府が公認している数。
- 最初に触れたテレビドラマ《茶金 ゴールドリーフ》は客家の人々が主人公。
- 本稿では文化的アイデンティティを語る際に言語についてあえて触れないで論を進めた。言語の問題は「国語」や「公用語」という問題を通してとりわけ統治権力と結びつきやすく、政策課題の色合いが強くなりやすい。それは避けたかったからだ。だが一方で、それが考察を浅く狭いものにした可能性もある。ことほど左様に文化の問題は論じるのが難しい……。
(写真はすべて著者による撮影。冒頭は国家音楽廰。オーケストラのコンサートなどが開かれるホールだが、外観も内装も西洋音楽の殿堂という感じではない。音響は良い。)