「推し」を語るということ
―推し語りデジタル・ストーリーテリングの展開(1)

03/01/2023
Shinya Mizojiri
溝尻真也

コロナ禍に見舞われた2020年から2021年にかけて、多くの大学で授業がオンライン化された。

このとき、筆者はほとんどの講義科目をオンデマンド授業として展開した。オンデマンド授業とは、授業内容を動画などにまとめてWebに公開し、学生はその教材を視聴した上で課題を提出する形で進められる授業である。Zoomなどを使ってリアルタイム配信されるオンライン授業に較べると、都合の良い時間に受講でき、通信容量も少なく済むメリットがある。この講義科目のオンデマンド授業化は少しでも学生の負担を減らすための措置だったが、作る側にとっては毎日朝からひたすらビジュアル資料を作り、1人でカメラに向かって語りかけ、そして深夜まで黙々と編集する日々が続く、身体的にも精神的にも辛い日々だったのを覚えている。

しかしそれにも増して困ったのは、オンラインでゼミをどう行なえばいいのかという問題だった。筆者が展開しているメディア文化研究のゼミでは、これまで仲間とのディスカッションを重ねながら雑誌や映像などの制作物を作り上げ、それを大学外に向けて広く発信する活動を行なってきた。基本的には一方向の講義科目とは根本的にやり方が異なるゼミ科目を、どうやってオンライン展開すればいいのか。毎回試行錯誤の繰り返しだった。

オンラインミーティングの空間は、教員に隠れて受講生同士でこっそりお喋りすることができないため、無駄話が発生しにくい場である。さらに、多くの受講生はビデオをオンにしたがらない。教員としても学生の状況や心情は理解できるのでビデオオンを強制するわけにもいかず、各メンバーの名前だけが並ぶ無味乾燥な画面に教員一人の顔が大映しにされることになる。当然コミュニケーションは盛り上がらない。

どうすれば顔の見えないオンライン空間で学生同士のコミュニケーションを誘発することができるのだろうか。苦し紛れに思いついたのが「推し」を語るデジタル・ストーリーテリング(DST)の実践だった。

筆者は2010年代初頭から、小川明子氏らとともにDSTに取り組んできた。DSTとは、日々のふとした思いつきや日常のひとコマなど、誰かに共感してほしい「声なき想い」を物語化・作品化して共有する活動である。参加者とファシリテーターが対話を重ねながら「声なき想い」を掘り起こし、物語化した上で台本を作成し、1~3分程度の短い映像作品や音声作品にまとめる形で行なわれる。語りのテーマは活動によって異なり、活動期間も数か月かけて取り組む場合もあれば2時間程度で終わることもある。

コロナ禍以降、筆者は学生たちと「『推し』を語る」というテーマの音声DSTをするようになった。考えてみれば、2010年代以降「萌え」と入れ替わるように「推し」という言葉をよく聞くようになったように思う。元々「萌え」は植物が芽を出す(萌え出づる)様子を表す言葉であり、それが転じて、心の中に自然に発生する好意的な感情を意味するようになったのだろう。それに対して「推し」はその漢字の意味合いからして、より能動的に対象への愛を発信するニュアンスを含んでいる。「推し」は他者に対して表明することで成立する、まさしくコミュニケーション的行為なのではないか。そんな思いつきから始まったのが、この推し語りDSTである。

学生たちはペアを組み、お互いの「推し」を聞き出す。ここでいう「推し」はアイドルやアニメキャラクターはもちろん、お気に入りのお菓子やこだわりのファッションなど、自分が能動的に愛を語ることができる対象で、聞き手に対して理解や共感を欲しているものであれば何でもいい。1~2時間程度お互いの推し語りに耳を傾け、その語りを共同で物語化し、その場で録音して発表しあうこの活動は、オンラインゼミの場でも大いに盛り上がり、対面授業の再開以降も筆者のゼミで定期的に開催されるようになった。

次回以降、実際に学生が制作した推し語りDST作品を披露してみたい。

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