「ただのお喋り」から何を感じ取るか?-会話型DSTの試み(1)
筆者は特にコロナ禍以降、声のデジタル・ストーリーテリング(DST)に取り組んできた。DSTとは日常生活を送る中で浮かんだふとした感情や、誰かに共感してほしい思いを、制作者とファシリテーターが協働しながら短いデジタル作品にしていくメディア表現ワークショップである。
前回のシリーズでは、大学のゼミ活動の一環として実施してきた「推し語りDST」を紹介した(「推し」を語るということ-推し語りデジタル・ストーリーテリングの展開(1))。そしてその最終回を「音声DSTの試み(…)は、まだまだ多くの展開可能性を持っているのではないだろうか」という言葉で締めくくった。本シリーズではその後の実際の展開過程と、そこから見えてきた音声DSTの課題について論じてみたいと思う。
まず、推し語りDSTを通して浮上した課題の一つに、声だけで感情を伝えることの困難があった。音声DSTで作られた作品は、ただでさえ視覚的な情報を提示できず、さらにうまく伝えようと事前に台本を準備しているために、話し手の意識はどうしても「間違えずに正しく読むこと」に向いてしまい、いわゆる棒読みになりがちである。結果として話し手の感情はうまく伝わらない。
そこで次に実践してみたのが、会話型DSTだった。これはラジオのトーク番組のように、2~3人でチームを組んでそのチーム内で会話をしながらそれぞれの思いを表現する音声DSTである。何をどのくらいの時間話すかという大雑把な進行表は共有しているが、台本は作らず、基本的にはその場のノリで会話が進んでいく。これならば、声だけであっても話し手の自然な感情を表現することができるのではないかと考えたのだ。
結果はどうなったか――。筆者はこの結果をまだうまく評価できずにいる。確かに学生たちは、まだまだ固さは残るものの自らの感情をより自然に伝えることができるようになったと思う。しかし、やればやるほどラジオのトーク番組の形式に近づいてしまい、聞く側もどうしてもラジオトーク番組との対比でこの作品を解釈してしまう。すると今度は「聞き手が求める情報を分かりやすく伝える」ラジオ番組と、「話し手のふとした思いを共有する」DSTとの内容的な差異が必要以上に際立ってしまうのである。
実際、知り合いのラジオ関係者に出来上がった作品を聞いてもらったところ、「これはただの大学生のお喋りであって、公共の電波には乗せられませんね」と一蹴されてしまった。うまくできればラジオ番組内で紹介してもらえる予定になっていたので、学生の落胆も非常に大きかった。
確かに、プロのラジオ番組の送り手として日々情報発信をしている立場からすれば、「ただの大学生のお喋り」を放送する意義は特段見い出せないかもしれない。それはよく分かる。しかし、そんな「ただのお喋り」の中にも話し手の日常や、日常生活の中から生まれた誰かと共有したい感情が含まれているわけで、その感情をこそ大事にしてきたDSTの実践者としては、やっぱりそんなに簡単に切り捨てることはできないよな……という、非常にもやもやした思いが残る結果となった。「公共の」電波を介して放送されるコンテンツに必要とされる「公共性」と、DSTが重視してきた私的な感情を分かつ断層が露呈したのかもしれないが、一方で「そこで言ってるラジオ放送の『公共性』って、そもそも何だっけ?」といった疑問も頭をもたげてきて、私は相変わらずもやもやしている。
というわけで、次回以降の記事ではこの会話型DSTを通して実際にできあがった作品を紹介させていただきたい。公共の電波には乗せられないかもしれないが、代わりにこの電子空間上で少しでも共感の輪が広がることを願って。